■牧歌的安定期

平成4年から平成11年(42才から48才)

 前期は、消費者事件を次々とこなし、弁護士としての自信がついた私にとっての転換期でした。しかし、事務所経営的には綱渡りであり、少し休息したいとの気もでてきました。そんなときに話があり、平成4年4月から横浜弁護士会の副会長を務めることとなった。横浜弁護士会の会長・副会長は、横浜弁護士会の執行部で、舵取り役でもあり、雑務係でもあり、時間的にはむしろ後者の割合が多かった。そのため、活動できる時間の半分くらいは、副会長の仕事に割く必要があった。私は、一人事務所の気楽さから、また、事件がなくなっても事務所に復帰すれば、直ちに、事件を回復できる経験があったので、比較的事務所の事件を増やすことでなく、副会長の仕事に精力を注ぐことができた。弁護士会の副会長の仕事はおもしろく、特に会長の補佐役をしていたが、せっかちな会長と競り合うように仕事をこなせた。副会長の仕事は、弁護士会の公共的なボランティアの仕事であり、直接自分の報酬とは関係ない純粋な仕事という面があり、やりがいのある仕事であり、それをやり通したことは私の力にもなった。また、横浜弁護士会の方々、事務局とも幅広い知己を得ることができたことも大きい。

 平成5年4月、初めての勤務弁護士である小村弁護士を雇用した。副会長も終わったし、一人お山の大将で自由にすればよいかなと思っていた。しかし、私を名指しで、雇用の希望があったので、それも縁かなと思い、雇用することになった。雇用しても大きな仕事は私がやり、できるだけ負担のない仕事をやってもらった。(最初の勤務弁護士なので、大事に育てましたが、子育てと同様、2人目3人目の勤務弁護士は、大まかにはなりました。)しかし、それだけでというか、それだからこそというか、私の自由時間が飛躍的に確保できたのである。その時間を、いままで好きな事件を優先して、めんどくさい事件は後回しという仕事のスタイルだったので、当時、数件の滞貨事件があり、それが精神的な負担となっていた。この滞貨事件をわずか数ヶ月で一掃できたことは驚きであった。改めて、勤務弁護士を置くことのよさを実感した次第である。

 滞貨事件が一掃され、事件にも積極的に取り組むことができるようになった。弁護士会の仕事で、法律扶助事件の増加には、特に力を入れた。法律扶助は、資力のない人に弁護士費用を貸し付ける制度であったが、神奈川では、その制度の宣伝が不足しているために、扶助件数が少なかった。そこで、市町村の法律相談担当者や、横浜弁護士会の会員に扶助事件を持ち込んでくれるよう頼み、大幅に増加させることができた。一時は、埼玉や千葉が、神奈川に学べと神奈川に視察にくることもあった。私の考えとしては、これまでは悪徳商法に騙された人の救済から、資力のない人に弁護士費用を立て替える制度の発展に力を入れたもので、1本の筋は通っていると思っていた。

 横浜弁護士会副会長をやったことを契機に、消費者事件とは一線を引き、法律扶助に取り組み、勤務弁護士の助けを借り、極めてのんびりした時期であった。最初の勤務弁護士は、3年で独立という約束を盾に、4年で無理矢理独立させ(当時、弁護士は、独立して一人前という考えに捕らわれていたので、独立を迫ったものです。小村弁護士には、いろいろ助けていただきました。)その後に、井上弁護士を2代目の勤務弁護士に迎えた。小村弁護士が在籍していたときは、大きな消費者事件はほとんどなく、事務所は平穏であった。井上弁護士を迎える直前に、ココ山岡事件が発生し、神奈川が本店所在地であったために、弁護団の代表の一人とはなったが、これまでとは違い、事務所の運営と弁護団事件を平行して処理することができ、牧歌的安定期が6年ほど続いたことになる。

 ただ、安定期も長くなると、刺激がなくなり、これに安住していいのかとの思いが募り、事務所膨張期に続くのである。