■転換期

昭和60年から平成4年(35才から42才)

 昭和60年夏T商事社長、永野が殺された。
T商事事件は、金のペーパー商法といって、お年寄りなどに、金を売ってその金を預かったと称して、預かり書を渡し、実は金など買っていなくて、紙(ペーパー)のみ発行していた商法であるが、昭和60年に倒産し、預かった金や、お金を返還できなくなったという事件で、全国で、1万人以上の被害者と1000億円を超える未曾有の詐欺事件である。
私は、昭和60年以前から、海外やブラック(商品市場を通さない)商品事件などをやっていたが、必ずしも中心で取り組んでいたわけではなかった。しかし、T商事社長永野がテレビ放映の中で殺されるという異常事態から、神奈川でこれを中心的に担っていたI弁護士の負担が異常に増え、とても1人では中心的な役割を果たしきれない状況を見て、私も、この事件の事務局に加わる決心をして、飛び込んだ。
その後、その年の暮れまで、T商事事件に没頭した。T商事の被害者から事件の依頼を受けるため、何度も説明会を開き、受任作業をし、その被害届というべき、破産債権届の作成し、破産管財人と共同してT商事や関連会社に隠匿された財産を発見し、裁判等で回収していく。また、これら被害者を直接騙した販売員を相手に、原告200人、被告200人という損害賠償裁判などをこなして、何とかその年の暮れまで走り回った。この間、新しい事件を受任することができず、収入は0に等しかった。今、どうやってその間食べていたかほとんど記憶がないが、半年以上このような生活ができたのは、不思議というしかない。
このように、T商事事件を扱うことにより、収入面では大きなマイナスであったが、私にとって、大きな収穫が多かった。第1に、消費者事件という私にとって1つのライフワークを得ることができた。これまでは、頼まれる事件を黙々とこなすだけであったが、自分からやりたい興味のある事件を主体的に取り組むことができ、しかも、社会に評価される事件に関われた。そして、消費者事件を自分のライフワークとすることができる基礎を与えてくれた。私自身に対する効果は、自分に対する自信の回復ないし基礎を作ってくれたことがあることはいうまでもない。
第2に、集団処理、大量処理のノウハウを学んだ。昭和60年のゴールデンウイークに、たまたま、ワープロ機械を導入し、それに慣れようとしていたが、通常事件では、もてあましていた。しかし、T商事事件が始まるやワープロは大活躍。隠匿した財産の仮差し押さえを出した翌日には、置換によって、訴状ができてくる。当時魔法のような威力を発揮した。また、執行も数多く行い、執行の経験を積むことができた。さらに、多数の依頼者をどのように整理するかなど、試行錯誤によって築いていった。また、多くに依頼者に対する説明会の開催要領、マスコミとのつきあいなど学ぶことは多かった。さらに、全国1000名を超えるT商事弁護団の弁護士に知り合えたことも大きな財産となった。T商事事件は最終的には、1割の配当を得ることができたが、被害者が老後の資金を根こそぎ持っていかれた被害は、消せないまま終わった。

 T商事事件は、昭和60年暮れで、一息ついて、通常の生活を取り戻しつつあった。しかし、私達には、なぜ、こんなに被害が広がってしまったのか、その前に阻止することができなかったのか、との苦い反省があった。私も、参議院の委員会で、T商事事件の被害を訴え、結局日弁連の強い働きかけで、不十分ながら、予防のための法律制定をすることができた。
そんなとき、野末陳平がラジオ等で抵当権証券の危険性を言っていた、また、T商事の残党が、今度は金を抵当証券に変えただけの「抵当証券ペーパー商法」を始めているとの情報もあった。私は、T商事において、被害の拡大を防げなかった苦い経験から、なんとかこれら商法が隆盛になる前に、これら詐欺会社をつぶせないかと考え、マスコミに自分たちの情報を伝えて、抵当証券が第2次T商法であることののキャンペーンをはっていただけるようお願いし、昭和61年秋から連載してもらった。そうしたところ、このキャンペーンが効いて、抵当証券の売り上げが落ち、詐欺会社が次々倒産していったのである。私達は、T商事の経験から、倒産するや、すぐに弁護団を結成し、被害者の救済にあたった。幸い、危ない抵当証券会社がほぼつぶれ、被害の拡大を防げたことと、バブルにより、破産の配当が予想外に多くなり、被害の一定の回復を得られた。

 その後、マルチまがいの詐欺事件、Iカントリークラブ事件など、1年か1年半くらいおきに大型消費者事件が発生し、その度に、神奈川の事務局を担当した。しかし、事務所の経営という観点からは、1年か1年半ごとに3−4ヶ月それら事件に没頭することになり、事務所経営は安定しなかった。しかし、仕事の充実度からいえば、達成感のある仕事に恵まれてきた。これら、仕事のサイクルから、事務所の経済の回復力にはたけた能力も身に付いたとも言える。

 この時期は、通常事件の処理、消費者事件が3分の1づつで、あと3分の1の精力をPTA活動と弁護士会活動に費やしてきた。子供3人恵まれ、長男が小学校2年のときから、三男が中学校を卒業するまで、数年間の休みがあったが、地元公立小学校のPTA会長を7年、地元公立中学校のPTA会長を3年合わせて10年PTA会長をやってきた。最初は、頼まれてやったものであり、1−2年で辞めるつもりであった。しかし、PTA会長をやっていると、学校の父兄、学校の先生、地域の人たちの協力が必要であり、これらの人との交流は、仕事とは別の楽しみであった。また、地域で生活しているのだという実感ができた。お金には直接結びつかない仕事であり、やったことは、やっただけ他からも評価され、気持ちよく活動できた。ただ、息子たちは、いつもPTA会長の息子とういう
プレッシャーを与え続けていた訳であり、この点気の毒な面もあった。同様に、このころ、日弁連等で、消費者問題を中心とする弁護士会活動も、お金に直接結びつかない活動であるが、やりがいのある仕事である。