■独立期

昭和53年から昭和60年(28才から35才)

 イソ弁期には、とにかく仕事に追われ、仕事に追いかけられてきた。その原因は、簡単にいうと、仕事に割く時間をとらなかったことにつきる。
 結婚して、酒を飲むことも極端に減った。あとは、弁護団関係の仕事をやらなければ、仕事に回せる時間が増える。また、独立したてでは、事件の依頼なぞそんなに多くなかった。
 そこで、独立したと同時に、弁護団関係の仕事を一切しないことにした。
 そうしたところ、昼間は勿論夜も十分な事件処理の時間を確保することができるようになった。イソ弁時代は、その日の事件について、その日の朝起案し、しかも、手書きの書面を出すこともままあった。ところが、独立して時間ができるようになったら、法廷が終わったら、すぐに、1ヶ月後の書面を書く時間ができたのである。1回書いてもう一度考えて、書面を出すことができた。まさに、仕事のサイクルとしては180度の転換であった。このように、イソ弁時代は仕事に追いまくられていたのがウソのように、今度は事件を追い回せる余裕ができてきた。そうすると、不思議なもので、事件の解決がみんなうまくいきだしたのである。幸い、イソ弁時代に、私の担当してきた事件をだれも置いていけとはいわれなかったので、みんな持ってきたので、それが序々に解決していったのである。解決すれば、報酬が入る。弁護士の収入で報酬が一番高額であり、その報酬が継続的に入るか否かが事務所維持のポイントであるので、これが入ったのが大きかった。結局、イソ弁時代に持っていた事件のほとんどが、独立期の1−2年で解決し、たくさんの報酬をいただき、家の新築資金に回せたのが好都合であった。

 独立するにあたって、当時は、今と違ってそれほどの独立資金は必要なかった。当初は、エレベーターを降りて、さらに1階階段を上がったところでわずか9坪の事務所を借りた。事務機器は、コピーとタイプが主な機械で、中古の家具屋さんから中古の机やいすやソファーを買い、開業した。たしか、独立資金としては200万円くらいであり、借金をすると食っていけなくなるので、貯金を下ろしてこれに当てた。また、事務員を雇っても、給料を払える見込みがなかったので、妻に事務員をお願いした。妻に事務員をお願いして三ヶ月も経たないうちに、妻が妊娠していることがわかり、事務員を雇うことにした。(この事務員が現在の事務局長である)

 この時期は、とにかく時間が有り余るほどあり、一日の仕事は午前中でほとんど片づき、午後は法律相談に行くか、昼寝をするか、小説を読むかであった。そして、5時の時報が鳴ると同時に事務員と先を争って帰宅していた。

 丁度、この時期に、子供が次々生まれ、四年で三人とつながったので、とにかく、子育てを中心にした生活であった。この時期に印象に残る事件はほとんどなく、可も不可もない極めて小市民的活動をしてきた。

 そして、弁護士10年目を迎え、豊田商事事件と巡り会ったのである。