■イソ弁時代

昭和50年から昭和53年(24才から28才)

 私の就職した事務所は、当時「S法律事務所」といい、現在の「B法律事務所」といいます。弁護士は、S弁護士を所長に、奥さんのW弁護士、M弁護士SG弁護士、TK弁護士、奥さんのTY弁護士、TS弁護士、WM弁護士の8名の弁護士がおり、各方面で活躍されておりました。また、所長のS弁護士は、選挙の候補者でもありました。私は、9人目の弁護士としてS法律事務所に加入し、弁護士としての1歩を踏み出したのです。

 S法律事務所は、大変大らかな事務所でした。当初は、先輩弁護士について、法律相談や法廷に行っていましたが、いつごろからかははっきりしませんが、ほどなく、一人で法律相談をやったり、事務所の当番といって、日直のように事務所に待機して、事務所の法律相談をし、事件を依頼したいとの話があれば、事件を受任していました。また、外での法律相談も担当するようになりました。法廷にも行くようになりました。先輩弁護士は、皆忙しく活動をされていました。しかし、私は、あまりにも順調にというか、運良く弁護士になったため、社会経験が不足していました。それがため、様々な失敗を重ねました。そのいくつかについて思い出してみます。(本当は思い出したくないのです。)

1 頭殴打事件
 S法律事務所は、労働事件をやっていました。その一つに、「ヤシカ闘争事件」がありました。ヤシカの相模原の工場が、会社からロックアウトされ、労働者がこれに連日抗議するため、周りを取り囲んで、示威行動をし、その監視役として私も派遣されたのです。私も、当時血気盛んで、工場内に占拠している会社の雇った者(かなりあぶない人たちでした)に、示威行動しながら、激しく抗議していました。抗議というか挑発に近いものがあったと思います。そんなところ、ある日突然、会社の敷地内からでてきた者に鉄パイプで頭を殴られたのです。今から考えると、殴った方も悪いが、挑発した私にも落ち度はすこしあったと思います。幸い、脳に何らの影響もなく、大きな怪我にもならず、今日に至っていますが、いまから考えると、背筋がぞっとする事件でした。この闘争は、和解で解決したのですが、工場再開はなく、現在は、その跡地にマンションが建っています。このマンションを見るたびに、殴られたことを思い出し、無鉄砲なことはしまいと反省するのです。

2 時効事件
 私は、交通事故の損害賠償事件を受任し、交渉をしていたのですが、保険会社に請求できる分を除いて示談したが、保険会社に請求したところ時効で請求できなくなった。これを依頼者に問いつめられ、しょうがなく自腹を切ったことがありました。それからは、時効については、人一倍神経を使うようになりました。

3 手形事件
 手形の取り立てをするにあたって、手形訴訟をすべきところ、手形訴訟を求めることをしないで、通常訴訟になってしまい、手形訴訟では1回で結審するところ、何回も裁判を重ね、相手方に大きな譲歩をせざるをえなくなったこともありました。しかも、裁判は北海道の室蘭が管轄であり、1回行くのに交通費などかかり、依頼者に大変迷惑をかけたこともありました。このこともあって、私は、遠くに出張する仕事はなるべく避けるようになりました。
 もっと、いろいろなことがありましたが、最も悪かったことは、頼まれた事件の処理が遅れ遅れになったことです。頼まれた事件の訴状ができるのが半年先であったこともありました。こんな状態では、依頼者からの催促があるわけで、その催促から逃れるため、事務所に戻れず、喫茶店に逃れることもありました。今から考えると、お金を使い込むことはありませんでしたが、懲戒請求されてもおかしくないこともあったのです。また、このような状態では、収入も安定していなかったことは勿論です。当時は給料制でしたが、毎月その給料分を稼ぐのがやっとということも多かったのです。このとおり、この当時は、事務所に貢献できていなかったのは事実です。今、こんなイソ弁であれば、直ちに追い出されても仕方のないのに、よく置いてくれたと感謝をしています。
このような事態になったのは、第1には、夜飲み過ぎでした。当時、独身の弁護士が多く、毎日飲み歩き、午前様になることもめずらしくありませんでした。第2に、夜などを中心として、法律団体の会合やらで、ほとんど仕事に回せる時間がありませんでした。といって、昼間は、相談や法廷などで、かけずり回り、じっくり事件に取り組める時間を取ることをしていなかったことです。第3に法律知識も社会経験も乏しく、紛争を解決する力がなかったのに、それを勉強することができなかったのです。第4に、わからないことができたら、先輩弁護士に聞けばよかったのに、遠慮なのか見栄なのか、聞なかったことでした。
こんな状態では、体にもよくなく、胃に神経性ビランができていました。また、いそ弁中に結婚したのですが、このような精神状態では、望んでいた子もできませんでした。
このような悪循環を断ち切るため、昭和53年9月に独立することを決めたのです。
ただ、このイソ弁時代が無駄かというと、依頼者や事務所の方にはご迷惑をおかけしたのですが、私にとって最良の肥やしとなったことを現在では言えますし、この間、事件でも親会社に解雇の責任を取らせたなどの成果を上げたものもあったことを付け加えさせていただきます。