■司法修習生

昭和48年から昭和50年(22才から24才)

 司法試験を現役の4年で受かったのであるが、自分が優秀だとは思わず、間違って受かってしまったのではないかとの思いのほうが強かった。司法試験の成績も500人中、400番以降だったので、この成績ならぎりぎりで、運良く受かったとしか思わなかった。
 一方で受かってしまったのであるから、これから弁護士になれると喜んでいたことは勿論である。しかし、どんな弁護士になるかについては、まったく考えることができなかった。まず、周りに法曹関係者がおらず、せいぜい大学の先輩らからの話を聞くのが精一杯であった。このころも、口べたで恥ずかしがり屋であることは変わらず、自分でもなにをどうしたいか表現することもできなかった。
 幸いか不幸にか、このころの司法修習生の卒業試験は、絶対に落ちない試験であり、だまっていても卒業できる環境であった。(今は、どんどん落とす試験となっているようである。)そこで、私は、これからの職業である弁護士のための修習より、遊びを優先してしまった。これは、今からすればもったいなく、残念であったが、とにかく、勉強しない司法修習生であった。

 司法修習生は、司法試験を合格してから、私の時代は2年間、裁判官、検察官、弁護士の実務を学ぶ研修を受けられる制度である。しかも、給料まで支払っていただける。2年間のうち、前期修習と後期修習は東京で行い、実務修習は神戸で修習を受けた。この実務修習地は、一応希望を取ってくれるが、私のような若い独身者で、しかも成績が悪いものは、横浜に残りたくとも残れないと思い、どうせなら、関西圏に一度は住みたいと思い、横浜と同じ港町の神戸を希望したところ、第1希望が叶えら、神戸に決まった。
 前期修習は、東京の湯島にある司法研修所で、クラスごとに、訴状や判決などの起案を中心とした講義と採点と講評をしてもらった。この中で、一番教えられたのが、民事事件の要件事実であった。私たちは、司法研修所の教育を「要件事実教育」と呼んで批判をしていたが、実務では一番重要なことである。民事裁判では、弁論主義といって、自分の権利を裏付ける主要な事実の主張と立証をしなければ裁判に負けてしまう。なにを主張し、誰が立証するかはあらかじめ決まっており(これを広く要件事実といいいます)、立証ができるものはいいのですが、立証できない場合は、立証する責任を負っているほうが負けるという原則である。そこで、相談された事実を、弁護士は要件事実にまとめ、裁判所に提出します。ところが、相談されたことを要件事実にまとめることが大変なのである。法律は、この要件事実を書いてあるわけですが、どの法律(要件事実)を主張するか、またどのように主張するかが大変なのです。(弁護士や裁判官の書いた文書が難しいのは、この点の理解が難しいからにほかなりません。また、法律相談では、相談されたことについて、裁判で勝つ可能性があるか否かを伝えるのですが、このときの判断は、要件事実に沿ってなされる。弁護士は、法律相談で、相談者の相談した事実を要件事実に振り分け、証明責任がどちらにあるかを考え、その立証が十分にできる事案かどうかを判断し、裁判の勝ち負けの見込みをお伝えするのです。)最終的には、判決で整理され、裁判官が要件事実と立証責任に応じて、裁判の勝ち負けを判定するのです。例えば、お金を貸したので返してほしいとの裁判では、お金を貸す契約をし、お金を渡したことを原告(訴える人)が主張し、それを立証しなけばならない。一方、被告(訴えられた人)は、返したとか時効とかを主張・立証する必要があるということを整理することを学ぶのです。司法試験の勉強は、いわば、学者的な勉強で、論理的思考ができるかを試されていました。司法研修所では、はっきりどちらかの立場にたって、あるいは裁判官としての立場で、誰が、何を主張し、立証するかの要件事実を主張し立証する勉強をするのであり、まさに実務的な勉強なのです。これが、重要であることはわかっていたのですが、例えば、損害賠償の裁判では、ほとんど、被害を受けた人が全部主張し、立証しなければ負けてしまうわけで、要件事実は、このような弱者を救えないのではないかとの疑問がありました。そこで、研修所の「要件事実」がすべてであるかの教育を批判していたのです。この勉強は、私にはつらい勉強でした。要件事実という考え方がなかなかなじめず、なにが要件事実かを見極めるのが難しいと感じたこと。また、要件事実が主張立証できなければ負けというのは、あまりにも杓子定規で冷たい感じがしてなじめなかった。少し勉強しても、いままでの勉強と格差があり、容易に追いついていけなかった。そんな訳で、前期修習は、十分な理解が得ることができないまま終わってしまった。一方、同じ修習をした仲間は、大半が弁護士志望だったので、互いに競争する(裁判官志望の人は成績によって将来が決まってしまうので必至で勉強していました)こともすくなく、同じ釜の飯を食う仲間意識のほうが強く、和気あいあいであった。この同じ年に修習した仲間を「同期」と呼び、研修所を卒業後も、たまに集まったり、年賀状のやりとりをしています。たまに、事件を紹介しあうこともあります。厳しい勉強でしたが、その間に、ソフトボールをやったり、いまでいう「合コン」などもやって、楽しい時期でもありました。
 実務修習は、神戸で1年半、裁判所や弁護士事務所、検察庁を回って実務を学んだ。ただ、どんな修習を受けたのかは、もう30年も前のことと、熱心に修習していなかったこともあり、ほとんど思い出すことはできない。神戸では、刑事弁護士事務所で、山口組の幹部の人に会ったのが印象に残っている。裁判所や弁護士事務所や検察庁では、修習生はお客様扱いであり、午後3時くらいになると、早退し、麻雀をやるということもあった。起案の判決や訴状などあまり書かなかった。私は、弁護士になるのだから、弁護士になってやればよいと勝手に決め込んでいたので、この期間ほとんど勉強はしなかったように思う。神戸では、初めての一人暮らしをしたので、食事や洗濯など比較的マメにはやっていて、他の修習生にご飯やみそ汁を作ってあげたこともあった。しかし、外でよく飲み、よく食べ、体重もかなり増えてしまった。山本くんはよく食べるねと言われ、食べ過ぎた。休日は、よく、京都や奈良に行き、仏像をみるのが楽しかった。京都と奈良は、修学旅行以来であったが、子供のときに見た印象と大人になってからの印象は大きく違い、京都や奈良はいいなーと思うようになった。特に、奈良ののんびりしたところは特に気に入り、丁度奈良に先輩が修習していたこともあり、よく行った。また、実務修習期間、よく旅行した。壱岐や中国山陰、四国、南紀など旅行した。また、正月休みには、新潟からナホトカに船で渡り、ナオトカからハバロスクまで汽車、ハバロスクからモスクワまで飛行機で、モスクワ、レニングラード等の観光に行ったことはいまでも鮮明に覚えています。しかし、それに引き替え、肝心の修習内容は皆目憶えていない。おそらく、熱心に修習していなかったものと思っている。折角、裁判所や検察庁の修習があったのであるから、弁護士志望とはいえ、しっかり見ておいたほうがよかったと今は後悔している。また、弁護修習ももう少し、まじめに取り組んでいれば、新人弁護士になっての苦労が軽減されたように思う。ただ、先送りをしていただけのように思える。私は、横浜で、6人の修習生の実務指導を担当した。最近の修習生は、皆まじめで教えがいがあることと、自分の反省として、もう少しまじめに修習生活をしていたらとの悔いが残っているので、指導している修習生には丁寧に教えるようにしている。
 楽しかった実務修習が終え、後期修習が始まった。後期修習では、今までの研修のまとめをやってくれたはずであるが、即日起案が大変だったこと、卒業試験のためのにわか勉強で間に合わせたとの印象しかない。
ここでも、真剣な勉強をせず、弁護士になってから勉強すればいいやと問題を先送りしただけに終始してしまった。

弁護士事務所への就職活動は、後期修習が始まってからの10月ころから始め、12月には、勧められた事務所に決めた。修習生時代、つきあっていた友達が、青年法律家協会に所属していたので、私もなんとなく、
青年法律家協会に所属し、やはり、一流企業側とは反対の立場の弁護士活動をしたい、また、横浜の地域に密着した事務所と考えて就職を決めた。今から考えると、この選択は無謀だったかもしれない。多くの使命を抱える事務所に、私が耐えられるなど考えもしないで飛び込んでしまったからである。次ぎのイソ弁時代につながるものであるが、イソ弁時代は、私にとって最大のきつい試練の時になったからである。しかし、どちらかというと、弱者に味方したいという私の弁護活動の基礎を作ってくれた等大きな影響を与えてくれたことも確かである。