■大学

1969年(昭和44年)4月明治大学法学部法律学科に入学。

1年生

明治大学は、私の志望校ではありませんでした。そこで、しばらくは大学に馴染めず、1年間は遊ぶことにしました。旅行にも、大学の特典を生かし、北海道などに行きました。しかし、司法試験のこともあるので、基礎研究室や法律相談部に所属していました。六大学の野球を見るうちに、明治大学に対する愛校心も持つことができるようになりました。
大学を失敗したとの思いが強く、司法試験の受験の研究室である法科特別研究室に翌年春に入室したのです。」

2年生

「1年と2年は、明大前にある和泉校舎に通わなくてはいけないのですが、2年から、お茶の水駿河台にある法科特別研究室に通っていました。
この年の夏までは、憲法・民法・刑法を非受験組として勉強してきました。
そして、秋には、来年の受験を目指し、受験組に入り、民事訴訟法、破産法、心理学も加え、一週間に一科目づつ、週末のゼミと答案練習会に向けてひたすら基本書を朝8時から夜10時までひたすら読み込む勉強をした。
今は、マニュアルがあり、基本書をあまり初めから読まないようであるが、当時は、このような勉強法であった。」

3年生

この5月に、初めて、司法試験短答式試験を受験した。短答式試験は、当時は、短い問いと5択の答えがあり、これを3時間に90問解くという問題であった。当時、0回答というのがあり、6択になっていた。この短答式試験に合格しないと論文試験の受験が出来ない仕組みになっていた。当時でも、2万人受験し、4000人(?)くらいしか受からない。
次に論文試験は500あまりしか受からず、これに合格すれば、口述試験はわずかしか不合格にならない。論文試験は本番の試験であり、この試験を受けるためには、短答式試験に受かる必要があった。
勿論、不合格。全く歯が立たなかった。
相変わらず、朝8時から夜10時まで、駿河台でひたすら本を読む生活をしていた。帰りの電車で、赤い顔をした高校時代の友達に会ったが、私の顔は青白く、夏でもほとんど日を浴びない洞穴生活と同様の生活を送っていた。この研究室には、ライバルが1人いて、いつもその友達のほうが成績がよかった。その友達に誘ってもらい、昼飯の後、先輩にお願いしてゼミをしてもらった。私は、その友達を追い付けるよう勉強をしたが、なかなか成績が伸びない。また、頭ではわかっているのに、これが答案に表れない。また、小学校時代から言われている字がきたなく、また文章力がなく、成績は低迷していた。
その中で、論理的思考を学ぶために嫌いな数学を勉強し直してみたりしたところ、法律的な思考に大変合っていることに気がついた。また、法律の体系を常に考えるように心がけ、また、学者は論争しているが、試験には絶対に出ないところがあり、そこは勉強しないで、出来るだけ切り捨てられるところは切り捨てた。この切り捨て方は、大胆にした。
そして、基本書を読む回数を増やし、人は1週間に1回しか読まないところを2回読んだ。
翌年の1月に短答式の模擬試験を受けたところ、いい成績が取れ、短答式試験に絶対の自信を持つことができ、早々短答式試験の勉強から論文式の試験の勉強に切り替えた。」

4年生

大学最後の年であったが、就職など考えず、司法試験一本に打ち込んだ。
5月14日短答式試験を学習院大学で受験した。2年目という余裕と確固たる自信があったので、緊張せずに受験できた。短答式試験後、論文試験に向けた勉強を再開。
勉強は、基本書を3−4回読むようにし、まんべんなくこなした。
読む速度は、ページを斜めに目を通すくらいの早さであり、何回も読んできたので、頭に確認させる作業が中心であった。
6月25日から6月29日までの5日間に亘る論文試験が始まった。
私は、この論文試験は体力勝負であると考えていた。実際、5日間も試験を続けて、体調が悪くならないほうがおかしく、私も後半は緊張のため下痢気味であった。この時期はちょうど梅雨時期であり、当時はクーラーもなく、むしむししていたのを憶えている。しかし、親にもらった体と気力がどうにか保たせてくれたのだと思う。試験後の感想は、とにかくやれるだけやったという充実感はあったことと、大きなミスをしなかったことに満足していた。民法の1問題が難しく、4−5枚書かなければいけないところ、2枚しか書けなかったし、その記述も問題点の指摘だけに終わったことが気になったが、それも済んだことと諦めがついていた。
前年の暮れころから論文試験の6月までの勉強の充実さと上昇力の手応えは十分感じていた。 
夏休みは、少し遊んで、夏休みの終わりころに先輩から口述試験の練習をしてもらった。論文試験が受かっている自信は全くなかったが、真剣に取り組んだ。
ところが、この年の論文試験に合格してしまったのである。自分でも信じられない気持ちであった。
そして、最後の口述試験に臨んだのだが、口述試験は全く心配しなかった。当時現役は絶対に落ちないとのジンクスがあり、これを信じ、入学式以来着ていない学生服で、9月の口述試験に臨み、ジンクスどおり、9月30日司法試験2次試験に合格した。なぜ、4年生で受かることができたのかいまでも不思議である。うまく、上昇気流に乗ったことは間違いない。しかし、その上昇気流に乗るには一定の学力が必要であり、他から一歩先んじていたものと思われる。それと、体力と気力が、この上昇気流をつかみ続けたことも大きいと思っている。司法試験は、頭でなく体力が勝負と今でも思っている。
合格して、一番喜んだのは、明大法曹界から、当時の1年分の学費であった5万円を奨励金としていただいたことである。これを、親に返金すべきところ、このお金で、先輩を訪ね、全部旅行に使ってしまった。司法試験に合格して有頂天になったときであった。
尚、毎度のことながら、いい時期は長くは続かず、この後、苦労に苦労を重ねることになるのである。この後は、追って書きたいと思う。

司法試験合格通知書 奨学金