■高校

1966年(昭和41年)4月神奈川県立希望ヶ丘高校に入学。
通信票の記載をもとにまとめてみました。

1年生

成績平均 3.7
【先生からの通信】
7月「なかなかファイトがあってよろしい。この調子で努力するように」
12月「やや気の弱い面も見受けられるが、全体としては申し分ない」
3月「ラグビーと勉学をよく両立させました。これからもしっかりやって下さい。」
【私の記憶】
「高校は、中部学区のトップ校でした。各中学校からトップクラスの人が集まってきていました。また、高校の勉強は、その日その日の予習復習が必要だったのですが、私は、生来の怠け癖と中学校時代の一夜漬の勉強方法が直らず、勉強についていけませんでした。高校の勉強は英語にしても数学にしても、格段に難しく、一種のカルチャーショックを受けてしまったのです。そこで、もう一度頑張って、毎日の予習・復習をすればよかったのですが、これができず、ラクビーの練習や試合に逃避してしまいました。」

2年生

成績平均 3.3
【私の記憶】
「2年生になると、クラスの順位も、50人中30番目くらいになり、楽しみは、 ラグビーだけという生活でした。しかし、学校の成績を除けば、楽しい高校生活でした。」

3年生

成績平均 3.7
【私の記憶】
「3年になると、進路に合わせてクラス替えがあり、私は、私立文化系のクラスになりました。成績から言うと、国立理科系、国立文化系、私立理科系、私立文化系の順になるのです。しかし、不思議と落ち着いた居心地のよいクラスでした。成績が似通った者が集まっていたのと、大学の受験科目が国語、英語、世界史と絞られたので受験勉強にようやく身が入り始めたのです。春にラグビー部も卒業し、受験勉強に打ち込めたのです。また、このクラスで、いまもつきあう友達が数人できたことも大きかったです。
志望は、私立の法学部で、司法試験に強かった中央大学でした。
しかし、受験の年に「東大紛争」があり、東大の入試が中止されてしまったのです。このため、東大をねらっていた人は、京大へと次々と降りてきたので、結局、合格したのは、志望の中央大学ではなく、明治大学でした。
高校時代は、ラグビーを始め楽しい思い出が多いのですが、私にとっては挫折の時代でした。」