■小学校

1957年(昭和32年)4月地元の公立小学校に入学。
通信票の記載をもとにまとめてみました。

1年生

身長110.3p 体重 19.7s 成績平均 3.57
正義感、責任感、礼儀、公共性にAがついていました。
【先生からの通信】
7月「元気よく発表しますが、もう少し字がきれいに書けたらよいと思います」
12月「おちついたよいお子さんです」
【私の記憶】
「分校ができ、友達と別れ、悲しかったこと憶えています。」

2年生

身長115.8p 体重 22.9s 成績平均 3.86
責任感、協調性にAがついていました。
【先生からの通信】
7月「おとなしいあまり目立たないお子さんですが、よく勉強しています」
12月「字が乱暴です。ノートをもうすこしきれいにつかうようきをつけたいと思います」
3月「堅実に目立たずよく努力しました。三年も頑張って下さい」
【私の記憶】
「低学年のとき、夏休みは、セミやトンボを取ってよく遊んでいました。朝早く、竹棒の先に竹でわっかをつ くり、これに蜘蛛の巣を絡め、これを使ってセミやトンボを捕まえるのです。毎日、毎日、こればかりしていました。セミを捕る直前の緊張感がたまらなくよかったからだったと思います。」

3年生

身長121.5p 体重 25.0s 成績平均 4.42
一つもAはありませんでした。
【先生からの通信】
7月「穏健で学習面も落ちついてよくできる」
12月「良く努力しています。もう少し明るさがほしい」
3月「堅実に目立たずよく努力しました。三年も頑張って下さい」
【私の記憶】
「先生の自宅に行って、おみやげにハーモニカをもらったことを憶えています。」

4年生

身長・体重 不明 成績平均 4.29
礼儀にAがついていました。
【先生からの通信】
7月「落ちついてよく学習しています。礼儀はよく心得ています」
12月「すなおな子で、真面目に学習するよい子です。一段の努力が望まれる」
3月「よく考える子で、はきはきして答えるところは大変よい」
【私の記憶】
「この当時、大変な赤面症だった記憶があります。はきはきして答えることができたか疑問です。性格的には、内向的だったと思います」

5年生

身長・体重 不明 成績平均 4.5
向上心、積極性にAがついていました。
【先生からの通信】
7月「今学期、実力が発揮出来なかった様です。その理由として、字がものすごくきたないこと、性質が潔 白すぎて、友達と考えが対立して孤立したことがあげられます。」
12月「学習は順調です。ないかたのんだり、聞いたりしても、ないも返事せずどこかに行ってしまうようなことがかなりあり、心配しています。」
3月「すばらしい向上をとげました。性質も明るくなり、好もしい態度でした。」
【私の記憶】
「5年まで、自分では内向的で、赤面症、潔癖、協調性がないと思って、いつももんもんとしていました。殻を破りたくてもやぶれないもどかしさを感じ、劣等感をいつも抱いていたと思います。宿題も毎日忘れ、立たされていたような記憶があります。そんなとき、恩師の先生に会いました。先生は、大学を卒業したてで、大変積極的な先生でした。しかし、その先生になかなか馴染めず、悶々とした日々を送っていたように思えます。当時、ベビーブームで、私が通っていた小学校も分校ができることになり、分校として独立するまでの暫定処置として、5年生が、学年ごと分校舎に通うことになったのです。分校舎は、当時珍しい円形校舎であり、教室も扇型で、黒板にかって狭まっている教室でした。客観的にはいい教室とは言えませんでしたが、私にとっては、集中できる環境でした。3学期になり、私は、積極的に手を挙げることにしました。これはたぶん先生の指導で皆がしていたことだと思います が、私も、そんな雰囲気に乗り、積極的に手を挙げたのです。しかし、もともとの赤面症の私ですから、うまく答えられるわけがなく、答えられず、立ったまま悔し涙を流すことが多かったのですが、それでも手を挙げることをやめませんでした。こんな積極さを先生が認めてくれたものと思っています。私の最初の転換点でした。また、当時、相撲が人気があり、クラスで15日間の本場所をしました。私は、関脇で、優勝できませんでしたが、横綱を倒したことはいまでも憶えています。」

6年生

身長・体重 不明 成績平均 4.5
自主性、責任感、根気強さ、自省心、向上心、指導性、積極性にAがついていました。
【先生からの通信】
12月「旺盛な学習意欲で、向上した。学校の仕事などもよく責任を果たしつつある」
3月「学習意欲ますます旺盛になり。学習の成果も充分あがった。又、性質も明朗快活になり、前途有望である。」
【私の記憶】
「5年生の勢いを継続し、発展させた学年であった。学校の仕事で生活部班長、学級児童会会長などを勤めるようになった。世話役や幹事役は私の得意な役割であるが、このころ始めたようである。多少、協調性、積極性、指導性が出てきたものと思われる。ちなみに、小学校を卒業してから小学校のクラス会の万年幹事を勤めている。
6年のときの思い出は、クラスのライバルが4人もいたことです。高校も3人は一緒であったし、彼らは、東大、北大、早稲田、国大にそれぞれ進んだ。私は、6年のとき、彼らをライバルと見て一生懸命やった。しかし、いつも負けていると思い、強い劣等感を抱きつつ、負けないようがんばったことを思い出す。
私の本来の性格は、穏健であり、内向的であった。しかし、育った環境と負けん気で突っ走ってきたと言えると思う。私にとっては、最良な環境であったことを感謝したい。ちなみに、当時の私のイメージは『いのしし』であったそうな」