■出生・幼少期

ひいばあさんがかわいがってくれ、いとこなどがからかうと、杖で、「跡取りになにをする。」と追いかけられたといとこがよく話をする。親戚が集まると、このたぐいの話がされるが、もちろん本人には記憶がない。これら話を総合すると、「座布団3枚」で育ったことは間違いないようである。自分の性格が穏やかだといわれるのは、こんな育てられ方をしたからであろう。
 家は、代々農家であった。どうも、父は、若い頃は、農業は嫌いであったようで、また若いころ父親を亡くしたこともあり、村から町に出て、鉄工所をやっていた。しかし、それをたたみ、鉄工所からキリコ(旋盤などで鉄を加工した後の鉄くず)などを買い、これを川崎にある製鉄所に売却する銅鉄商(鉄くず屋)をやっていた。私も、小学校の高学年ころから、休みになると、アルバイトでよく手伝った。半日で、トラック1杯約2トンもの鉄くずを、鉄工所の奥の方から、くまでや、ホーク、スコップなどで掻き出し、これをトラックに積み込む重労働で、私ら子供を育ててくれた。感謝している。
 私の名前「安志」は、自分で説明するときは、「安らかに志す」と言っていたが、まわりからは、「安い志だろう」とからかわれた。しかし、これにムキになって反論し、自分は「安らかに志す」なのだと言い聞かせ、これが自分の心の支えにしてきたと思う。私の性格の一方の特徴である負けず嫌いや激しさは、父親の影響もあるが、名前に負けまいとの思いが育っていったのかも知れない。
 当時の保土ヶ谷は田舎で、ここを走り回って遊んでいた。一方、本(絵本と思う)が好きで、本さえあたえておけばおとなしかったらしい。本好きは、いまでも続いており、弁護士という職業が苦にならないのは、こんな生活習慣があったからであろう。
 当時、横浜ではめずらしい幼稚園兼保育園に通ったが、おとなしい子であったという。クリスマス会、お遊戯会、運動会などにわずかに記憶が残っている。